私は自身の生活圏で見かけたものを組み合わせて風景画のようなものを描いている。自身の周辺に見られる要素をサンプリングして絵を作っていると言い換えてもいいかもしれない。
ドローイングやフォトコラージュ、絵画といった作品を、「風景画」として制作している。一般的に風景画というと、ある場所の眺めを切り取ったような絵画が想定される。しかし私の風景画のモチベーションは、多くの人が生まれながらに持つ「さみしさ」に起因する。
「 生まれながらにあるさみしさ」とは、感情ではなく、痛みのように生存にかかわる感覚だと考えている。それは自分の輪郭が不確定であることへの不安であり、その不安定な輪郭を確かめてくれる他者の不在、外界の不確定さに対する根源的なさみしさである。自身と他者のあいだには明確な区切りがなく、私はどこまでが「私」かよく分からない。自身の曖昧な輪郭は、周囲の輪郭をたどることによってドーナツの穴のように浮かび上がるのではないか。そのような興味から私は自身と外界のあいだにある「自身の生活圏=周囲の風景」を考察し、描いている。
風景もまた個々の活動やその痕跡の積層により刻々と変化する、ゆれうごくものである。私は絵を描く過程で線を引く/色を重ねるという行為を集積していく。それは風景というものを捉えるときに、動き続ける層状の時間を感じるからである。国道沿いの停留所でバスを待っていると目の前を様々なものがそれぞれの理由で行き来する。道路のシミや落書き、走り去る猫、停車するバスのように私たちの生活環境は様々な事が同時多発する。それらが過去の痕跡と並存することで「今」という光景を作り上げている。他者からすれば、私の存在という事象もまた道路の落書きと等しく風景の構成要素である。そのような考えから、私は風景の成り立ちを「事象と痕跡の層」と解釈し、作品に反映している。線や色といった構成要素を少しずつ重ねていく手法で「風景が出来上がっていくように」絵をつくれないかと考えているのだ。
日々、揺らぎ続ける自己や周辺を自覚するなかで、私は環境と自己の関係について思考をしている。私は制作をとおして世界を自身の身体感覚の延長にあるものとして捉えようとしている。また、「全体」として存在する世界を、それを構成する無数の個の存在とその痕跡の層として考えるとき、どのように描きうるか。そのようなことを考えている。